昭和54年9月14日 朝の御理解
御理解第8節「子供の中にくずの子があれば、それがかわいいのが親の心じゃ。不信心者ほど神はかわいい。信心しておかげを受けてくれよ。」
昨日、13日会でみなさんの素晴らしい発表を聞かせて頂きましたが、自分でも素晴らしいお話を聞きましたが、私の話も大変程度の低い幼稚な話ですけれどもというて椛目の宮崎さんの奥さんですね、照子さんが発表されました。けれども本当に心を打たれるというか、今日のご理解から頂きますと、ははぁ天地の親神様という方はこういう方だなという風な感じ取れるお話でした。
先日から、東北の方へ仲良しグループで旅行をされました。勧められたけれども自分は乗り物に弱い。バスに乗っても酔うし、だから行こうと思ってもなかったけれども仲のよい人から勧められてお参りを、お参りをいたしました。そのことを若先生にお取次ぎを頂いて、お願いをさせて頂きました。日頃は合楽理念をどうこうと心にかけてないのですけれども、せめて旅行中位は、しかも一番合楽理念の中でみやすい、いういなら程度の低いことなんだけれども心行と言われる。
それは例えばスリッパ一つそろえるでも、またおトイレにいったらトイレットペーパーをきちんと、合楽風に折ったりすることもです、もうやはりかようかんと申しますかね、旅行にまいりますと、旅の恥はかきすて的な、御殿なんかでも、女の連れでもあろうけれども、まあろくそうな振る舞いをみんながするけれども私はそのことだけに一生懸命取り組んだとイっておられました。スリッパをそろえること、トイレに行ったらトイレットペーパー1枚にも心をこめさせて頂いたと。そして、おかげを頂いて、いうならこんなに乗り物に弱い私がおかげを頂いて酔わずに帰ったという話をしてあります。それを、宮崎さんの話を頂きますと何か本当にすばらしい発表だったと思うのです。
私は思うのですね、もう本気で、どんなに小さいことにでも徹底して取り組むことだと思うのです。自分でも言っておられたようにこの頃は朝参りもできんでおります。いうなら無信心な私ですけれども、せめて旅行中だけはいうならば、合楽理念のしかも、いうなら本当に初歩的な、いうならば心行の印といったようなものを現させて頂いたらおかげを頂いて、乗り物にも酔わず楽しい旅行ができたという発表でした。
なるほど、トイレットペーバーを三角に折る、その時には後から入ってみえる方が気持ちがいいように、ただ自分がきれいずきだからといってすることじゃない。履物をそろえるのも、後からあがってみえる方達が気持ちがいいように、整理整頓でするのじゃない。次の人が見られる、次の人が感じられることを考えているそのことが心の行だとここでは教えられます。だからそれを本気で実行したところに、難しいことじゃない、そこんところに、楽しい、いうなら乗り物にも酔わずにおかげを頂いたという話なんです。
それでおかげを頂いてお礼に出らせて頂いて、その晩大変厳しいお夢を頂いたというてお夢の話をしておられます。親先生が私の方へ来て頂いおります。御祈念をした頂くにも、神様をお祭りしていないものですから、御祈念のする所がないからお仏壇に向かって御祈念をなさって、終わられたらこのお仏壇を片付けてしまえとおっしゃった。なら親先生がみえたってのでも、ちょっと片付けしようと思うけれどもどの部屋もどの部屋もいっぱいちらかっておる。外の壁には虫がいっぱいついておる。はあ、お父さん、あなたが日頃仕事やらしなさらんこげん虫がいっぱいついとると言って主人に不足をいうような心がおこっておる。自分も親先生がみえとるけん片付けようと思うておるけれども中々よう片付けられんで、照子さんはしておられるような厳しいお夢であったと。
確かに屑の子ほどかわいいと、信心はできませんけれども、普通は行じてもおりませんけれども、せめて旅行にいっている間位、合楽理念の真似事でもさせていただこうかと、それに徹底してそのことを行じさせて頂いたとこういう。それなのに、おかげで楽しい日頃からの信心に神様がおかげを下さったと、帰ったらお夢の中にそういう厳しい、ついに神様がしつけようとなされるものを感じますね。もうお前は何年信心しよるかと、神様をお家にお祭りせじゃごてと。いうならば、改式の一つ位なっとかじゃごてと。日頃片づけとらんからこうなんだよと。大体庭や植木をされる人ですから、よその家の手入れはいっても、家の植木の手入れはできとらんじゃないかと。ついには厳しい態度でしつけをしようとなさっておられます。
そこで、いうなら宮崎さんが「はぁ、そうだった」と日頃の信心に、日常生活の上に、旅行をした時のような心を使うて、もっとましな合楽理念の実験実証者としておかげを頂いていったら神様の豊斎なんかはもう、早うせずにはおられん、早くせずにはおられんということになってくるのです。そこから、いうならば信心しておかげを受けてくれよというおかげはそこからです。
そういういうならお道の信心の、合楽の信心の徹底したところが分かってくると、改式もせずにはおられない、いうならば、日頃の合楽理念の実行、実験実証者としてのおかげを頂いた時に頂けるのが、神様が願っておられる、氏子信心しておかげを受けてくれよというこしになるのです。神様が、どうぞ氏子信心しておかげを受けてくれよと言われるおかげというのは、それこそ真善美に輝く、貧相病のない、いうならば日勝り、月勝り、年勝りではない、大勝りのおかげの頂けれる土台がそこにできてくるのです。
ですからお互い簡単なことからでもよいから、宮崎さんではないけれどもせめて、今日一日は、という信心を今月今日で勧めていき、なるほど実験すればこういうおかげが頂けるという実証を感じながら、いよいよ本当の、いうならば信心、本当の合楽理念の実験者、行者としての信心生活ができるようにならなければ。そこのところをどうぞ信心しておかげを受けてくれよと、屑の子ほどかわいい、日頃は信心できませんのに、日頃は教えに取り組むことをしませんのだけれども、せめて旅行中の何日間かだけでもこのことだけは実行します、行じますと、屑の子ほどかわいいと、信心はないけれどもかわいいというものを感じるでしょうか。
昨日一昨日でした。勿体島の原照子さんの所のお父さんの、一ヵ年の一周忌のご祭典がございました。兄弟がみんな集まってまいります。小西さん、鳥栖にお姉さんがおられます。その方も一緒にお参りでございました。そしてここでみなさん玉串をあげられた後に、頂いたことをご理解させてもらったんですけれども、今日の御霊様が一番喜びなさったのは、あなたがお参りなさったことですよと、鳥栖の姉さんのことを申しました。日頃親不孝しとるとが、いわば尋ねてくる。親はこれほどうれしいことはないですよね。日頃、もちろん親孝行してくれることも、もっとでしょうけれども、日頃なんしよるっちゃろうかと、よりつきもせんがというものが、たまたまやってくる。いうなら玉串の一つもあげるということになる。
だから、今日の御霊様は、今日はあなたがお参りされたことが一番お喜びなさったよと言うて、またあちらのお父さんと、その参っておられる姉さんとの顔をだぶって頂くんですよ。だからそういう風に聞いて頂いたんですけれども、屑の子ほどかわいいと言われる、その一つの理というものがあるでしょう。日頃無信心者ほどかわいいと。あの人どうしよるじゃろうかと、神様が心配しよんなさるから例えばお参りをしてくると。だからいつでも無信心になっとくと神様からかわいがられるという人がいますけれどもね、確かにそういう理もあるわけです。
というて、いつもその日頃は心配させとって、たまに喜ばせにくるというのも何ですけれども、私は今日のこのみ教えの中にはそういう意味も含まれていると思うです。ですから問題はね、例えば自分の子でも言うことをきかん子は親でもしかたがあるまいがとおっしゃっておられるでしょう。時節をまっておかげを受けたらよかろう、そのいうならば、親不幸な子供のことを「もうあげな奴はかまわん」じゃなくて、後ろから神様が、親が祈りに祈ってあるのです。どうぞこちらに向きを代えてくれるようにと。時節をまっておかげを受けたがよかろうというように、それが親神様のお心なのです。
ですからね、いうことを聞かぬ子が一番つまらんとおっしゃっておられます。ですからね、例えこんなささいなこと、合楽理念の中にあるです、これが合楽理念だ、合楽で言われる心行とはこれだという風にです、いうなら序の口の所の信心でも本気で私共が心にかけさせて頂くならば、もう神様の喜びがバスには酔わなかった、車にも酔わなかったというようなおかげがそこに現れておるのです。だからそういう実験実証をです、いよいよもっとましな、もっと深い広い意味合いにおいての合楽理念が、生活全般の上に頂けるようになった時に、氏子信心しておかげを受けてくれよという、そのおかげ。もう神様の願いがあなたの上に成就する。
昨日、私13日会の時に言うのを忘れてましたけれども、天地の神様は、神の願いが地上に成るといったような表現で頂くのですけれども、『合楽の願いが地上に成る』と頂いたのです。ということは、結局合楽理念を行じさせて頂くところに、神様の願いが、いうならば、ここに久富繁雄という方がおられるが、この久富繁雄の願いが地上に成就すると。どういう風に成就していくかというと、貧相病のない、真善美に輝く、日勝り、月勝り、年勝り、しかも自分1代ではない、代勝りのおかげにまでつながっていくというほどしのおかげを受けてくれよと神様がいうておられ。それが神様の思いである、そういうおかげを受けて初めて、神様の願いに答え奉ったということになるのじゃないでしょうか。そういうおかげならば、示現活動の上においてもです、信心をさせて頂いてこういうおかげを受けたということになれば、素晴らしい示現も活動も、またできるというものですよね、どうぞ。